娘と初めて外に出た。
北風に凍えるような薄曇りの土曜日、買ったばかりのベビーカーを地面に下ろし、厳重な防寒対策にロシアのマトリョーシカの様に着膨れた娘を乗せる。
歩いて5分のイトーヨーカドーまでという短い道程ではあるけれど、我が家に来てはや半月、娘にとってこれが正真正銘初めての、記念すべき親子3人でのお出かけだ。家長としては少し感慨深い。
やや気持ちが昂ぶっている僕を尻目に当の娘はと言えば、ベビーカーに乗せるやいなやで完全にオヤスミモードだ。目を瞑ったきり起きる様子も無い。
「親の心子知らず」、実体験で学ぶ諺は、ナルホドこれが、と感じ入る反面少しだけ切ない。
ベビーカーの重量は、平均5キロ弱。0歳児から使えるようなAタイプのベビーカーは、だいたいこのくらいの重さが平均的。購入したベビーカーも、だいたいそれくらいだ。
それに娘の重量が加わわれば9キロくらいになるはずで、それはちょっとした米俵くらいの重さなわけで、もっとずっしりとヘビーな押し心地を想定していたのだが、片手でちょっと押せば軽々と前へ進んでしまうその軽い押し心地に少し戸惑いながら、僕と娘と奥さんは、一路買い物へと向かった。
こうやって我が子をベビーカーに乗せて実際に押してみて気がついた。街中って意外にデコボコが多いのだ。
我が家のマンションの、棟と棟の境目部分。
歩道と車道の段差。店舗入り口。
会社の行き帰りに歩いている道路にも、普段は気にもとめないアスファルトの継ぎ目、ヘコミ。
ちょっとしたデコボコでも、気をつけないとベビーカーはガタガタと揺れてしまい、乗り心地と押す人間の手際の悪さをアピールするように、娘の眉根には幾筋かの皺が走る。もっと静かに運転してくださらない?む、なんだか生意気だぞ。
バリアフリーって言葉が使われだしてから久しいけれど、正直なところ自分には関係ないなあって思っていた。誰でもそうだと思うけれど、またげば乗り越えられる石には、なかなか目が留まらない。蹴躓いてようやくそれに気がつくのだ。
田舎にすむ身内の中に車椅子を使う者がいる関係から、車椅子を押す経験も無いではないというか割と頻繁だったのだがそれも常ではなかったし、田舎は車での移動が主だったので、街中の細かいところにまで気を配ることは無かった。
が、自分の娘をベビーカーに乗せてみて、おっかなびっくりの往来をこなしてみて思う事は、街中は僕が想像していた以上にデコボコしていて進みづらい。デコボコ以外にも、左右が見渡しづらい交差点や、一見歩行者専用道路のような幅員の道路なのに、気をつけてみると意外に交通量が多かったり、とかく気を使う。
今まで当たり前のように通っていた近道や、ダッシュでの車道の横切りも、ベビーカーを押しながらの緩慢な動きではとても適わない。
どこかへ向かおうとした時、自分の歩行速度や所要時間、同行者の有無や天候、ついでに立ち寄るお店などの諸条件を鑑みて、経験則から導き出した自分なりのルートというか、行動パターンのようなものが、各々の中にあると思う。基本的に、自分の目線での行動だ。
ところが今回、娘を連れて外出してみたところ、僕の培ってきた行動パターンといったものがまったくもって適用不能であることに気がついて焦った。
ツタヤに行くにも店舗への階段が急すぎて躊躇するし、綺麗で広い道を通ろうと思っても、お洒落な石畳はデコボコで、ベビーカーでは進みづらい。
まったく同じ場所でも、視線の高さや体の大きさ、身体条件などが変われば意味が全然変わると言うことか。
頭ではわかっていても、いざ体験するとなるととっさには対応できないものだな。
このエントリーを書いているこの瞬間深夜一時過ぎ。ウチの娘は今現在、まったく泣き止まない状態が続いている。
オムツも代えてあげたし、ミルクもあげた。考えられる懸念は全てクリアしているのだが、抱っこからおろすとすぐに泣き出す。ワケが判らない。抱きながらこのエントリーを書いていたりして、もはや5時間以上泣き止まない。ライブにしてもサービス過剰だ。客もグッタリ。
僕の叔父はとても温厚で、怒ったところをみたことが無いほど自分の娘を溺愛しているのだが、そんな彼をして、一晩中泣き止まない愛娘をあやしている時「泣かせるな」と怒鳴られたと、20年後の今でも奥方である叔母は恨み節だ。それほどに泣き止まない夜泣きは精神的にクル。
考えられる全てをしてあげても、子供は思うようにはならない。育児は本当に、理不尽の塊だと思う。最近多い子供への虐待も、理解はしないがまあ、わからんでもないよなと思う自分がいる。
でも、この暴君じみた理不尽さって、自分自身も親にしてきたことだ。
止まらない夜泣きも、オムツを代えている最中の糞便も、ミルクを顔に吐きかけたことも多分全部。
暴君のような理不尽さで、両親の睡眠時間を簒奪してきたのだろう。
だから、この理不尽さをいっそ楽しもうと思う。
自分の行動パターンとか価値観とか全部ぶっ壊して、もう一度目線を下げてみたいと思う。気がつかなかった道路のデコボコが見えるくらいまで。
目ってのは両目がで見て、初めてモノと自分との距離が測れるものだ。
一度は通ってきた子供時代を、子供の目線を通して追体験できるなら、自分+子供という倍の視点で物事を計れるってことだ。これは凄く面白そうだと思う。
もちろんそれは擬似的なものでしかないけれど、子供の目を見て、話を聞いて、子供の気持ちを想像して、子供の目の高さで、世界をもう一度再構築してみよう。
もう見えなくなってしまったことや忘れてしまったことを思い出すかもしれないし、逆に今だからわかることなんかも見えてくるかもしれない。なかなか一人では出来ない経験だ。そう考えると、それってすごくオモシロそうだ。
夜泣きにムカつくくらいなら、子供に負けないくらい、一緒にワンワン大泣きしちゃえばいい。近所迷惑とか、まああんまり気にしない。
で、実際にやってみた。何の解決にもならないのはわかってるけど、クッションで子供の口を塞ぐよりはよっぽどいいし、もしかしたら子供の気持ちもわかる手がかりになるかも。少なくともすっきりしたよ。
僕の子供が、「僕だけの子供」でいてくれるのなんて、あとたった10年ちょっとぽっちしかない。だからまあ、今しかない、今後も経験できない「育児」という得がたい理不尽を、のんびり楽しんでいきましょうか。

娘のご機嫌サインは2時50分。江頭じゃあない。寝ている時の腕の向き。
これが3時45分だったり、4時55分だと、そろそろ起きそうだのサイン。
すっかり弛緩した腕と表情が、今のお気に入り。愛いのう愛いのう。
関連する投稿
- Newer: ブラックユーモアは免許制にすべき
- Older: 餃子は人を殺す武器にもなるって事を教えてやる
Comments:0
Trackbacks:0
- Trackback URL for this entry
- http://hmlab.info/minor/2008/01/post-32.html/trackback
- Listed below are links to weblogs that reference
- 幸せのサインは2時50分 from Minor Problem
