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ブラックユーモアは免許制にすべき

学生時代って、斜に構えて「自分は他とは違う」ってとこを見せたがる年代じゃないですか。自分を棚に上げての他人批判だとか。
「日本人ってそういうとこがダメなんだよねー」とか言っちゃうみたいな。

今でも思い出すと顔を覆いたくなるほど恥ずかしいのだが僕にもそんな時代がある。進学とともに親元を離れ、若さと自由と時間とを持て余し、何をするでもなくモラトリアムの海に首まで浸かっていた大学生だった頃のことだ。


講義が始まる前だったか終わった後だったか、僕は友人たちと教室で会話をしていた。会話の内容自体はよく覚えていないが、当時の僕の得意な論調は所謂「毒舌」という奴で、他者の欠点や失敗を槍玉にあげ、「毒舌」で他人や社会を切ることが自分の「スタイル」であり、それがクールだと思っている節があった。

その時もおそらく、そんな「毒舌」を駆使して友人達と会話をしていたと思うのだが、そんな僕の自称「毒舌」を不快に思ったのだろう、ある友人の女の子が僕に向かって言った一言が、今でも忘れられない。

「あのな、”毒舌”と”悪口”は違うんだよ?」

ぶん殴られたみたいな気がした。つまり上から目線の”毒舌”で、いい気になって社会を切っていたつもりなのは僕だけで、周囲から見れば聞くに堪えない”悪口”を撒き散らすだけのタダの餓鬼だったってこと。

ビートたけし「差別発言でみんな笑う、そう、差別が笑いになるんだよ」(リンク先:ニュー速クオリティ)

そう、差別は面白い。だって笑いの基本だって、社会不適合でイカレた言動を繰り返すボケが狂言回しとしてボケ倒すのを、「常識人」であるツッコミ(観客の代理)がツッコみ倒すことで成立しているのだから。子供なんか、イジメラレキャラ好きでしょ?

「毒舌」と「悪口」の違いを僕なりに考えると、そこにあるのはユーモアの有る無しだ。俗にいうブラックユーモアか。

「ブラックユーモア」とは「社会的タブー(禁忌)」をイジリ倒すことで発生する。
禁忌に触れなければ面白さはないし、やり過ぎれば客は引くし、逆に風刺くさいものになってしまうこともありさじ加減が難しい。

「タブー」の語源はタヒチ語の「タプー」であり、つまりタブーとは未開な土地の概念であり、それが文明化の現代に次々発生していることは皮肉だと、ビートたけし同様「ブラックユーモア」の大家である筒井康隆が断筆宣言前に言っていた様に思う。

ブラックユーモアは日本のウェットな風土の中ではなかなか馴染まない。
ともすれば「差別発言」=他者を貶める忌むべきものと捉えられてしまいがちだが(日本にはディベートが存在しないのと根っこは同じか)、あまり過敏になるのもいかがかと思う。

当然「差別」そのものが「面白い」とは僕も思わない。それを笑いに昇華できる「センス」と、笑いとして消化できる「余裕」が「差別」を笑うのには必要であるし、出し手と受け手双方に資質の問われる、笑いとしてはかなり高度なものだと思う。

「芸は他人を傷つけるものだ。その中でもそれが顕著なブラックユーモアを使うのは”免許制”にしたらいい」と同じく筒井が発言していたが(誰と誰ならいいと勝手に認定していたような)、本当に力のある芸人さんや作家さんはどんどんやっていいと思う。

ただし、その笑いは時に人を傷つけることを自覚して、後ろから刺される覚悟のある人限定で。

僕にはそのセンスも、覚悟も無いです。

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